―アンダーソン君を偲んで、この文書を記す―


あの絵




始まり

 前2作と比べて、質の落ちるカットが多すぎるレボルーソン。

 全編腰砕けの映画ならば、単純に「3作も立て続けに作ったので製作スタッフがアイデアに詰まった」と考えられよう。しかし不思議な事に、大きな戦闘シーンには今まで以上の迫力があった。
 レボルーソンという映画は、練られた場面と取ってつけたような雑な場面が混在するようであり、とても前2作を作り上げた人たちの作品とは思えなかった。

 「じつは現在出回っているレボルーソンは死亡遊戯方式、すなわち何らかの原因で筋が撮影終盤の数ヶ月で大幅に直され、仕方がないので大急ぎで世界設定語りの場面等を作り、ソレをザイオン包囲攻撃やスーパー大乱闘など 手のかかった戦闘場面と繋げ、どうにかこうにか一本の映画に仕立てるといった作られ方をしたのではあるまいか」

 ……という説すら唱えたくなる。

 主人公が死んだから、ぎゃーぎゃー言っているのではない。ほんとうに、ずっこけてしまう場面は多いのだ。
 しかも、「思想がやたらネガティブなシーン」と「映像がきたねえシーン」が奇妙に一致している。
 それで上に挙げたような説を思いつき、この問題について取り上げたのがこの文書である。


 この文書を読む前提として、覚えていて欲しい事はいくつかある。

 ひとつ、最も重要な事は、わたしはレボが始めからあのような空しいようにしか思えない映画として作られたのではないのではないか、 と思っていること。
 そういうわけで、例えば「モーフィアスか主人公どちらか死ぬという予言→レボでまさに実現」「アーキテクトはどちらにしろトリニティは死ぬと言った→レボで死んだ」というような 「前2作の出来事」と「レボルーソンで唐突に起きる糞面白くもない出来事」とを繋げて辻褄を合わせる作業をしていない事。
 公式サイトやファンサイト等では、綺麗に完結したと思いたいのであろう。伏線はすべて消化されているからあの映画はあれでいいのだとしているようだが、わたしはあえてそれで納得しない事。

 ふたつ、わたしがスミスファンであり、そのせいで文書の後半ではスミスネタ&スミスに扮したヒューゴ・ウィービングのネタが多く出てきている事。

 みっつ、主人公の呼び名をアンダーソン君で統一しているという事。
 これは、前作リローデッドでアーキテクトが「THE ONE」の真相について語って以来、「THE ONE」= アーキテクトに用意されたモノ、というマイナスイメージが付いてしまい、 「THE ONE」からの言葉遊びでつけられたNeoという名はあまり呼びたくなくなったというわけだ。

 よっつ、文中では何だかんだいろいろと言っているが、スミスのキャラクターはやはり「第1作の無機質な雰囲気」が大前提になくては困るとしている事。

 最後に、わたしはMATRIXシリーズが大好きであり、だからこそレボルーソンの絵が前2作と比べて異質に見える事が気になってしまい、 こんな文書を書いたこと。

 以下、気になる場面についてDVDを観て考えたことを、映画のストーリーにそって書いていく。


 それでは不思議の国をお楽しみいただきたい。

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